昭和46年03月13日 朝の御理解



 御理解 第81節
 「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めるとすぐに後へもどるぞ。」

 信心をいよいよ進めさせて頂くための御理解であります。更に更に信心を進めて行きますためには、そこに一分の隙もあってはならん事でございます。一分の隙もあってはならないと申しますと人間の事ですから、どこにお粗末が有るやら御無礼が有るやら隙があるやら分かりませんのですけど、私共が信心を進めて行くと、信心をいよいよ分からせて頂くと、信心をより確かなものにして行くと言う、行こうという一心の思いがあれば、それでいいのだと思います。
 どんなに形の事が出来ておっても、そのことがなかったら、いわゆるしんじんはマンネリになって仕舞って同じ処をぐるぐる回っている。信心の程度では同じ処をぐるぐる回っておるのでは、それは形の事が出来ておっても本当なことではないとこう思う。人間ですから、いわばそこんところの気持ちがあって、そしての失敗そしての間違いならね、その間違うたところを又境に次の信心に飛躍するのです。いわゆるいつも私が言う、信心は波状形、波が寄せては返す様に波状形。
 同じところばかり決して止まっているものではない。けどもそれが落ちたら、例えば五落ちたら次は六登らなければいけん。七落ちたならば八登って行かなければ、ところが同じところをぐるぐる、ぐるぐる回り、同じところを失敗ばかりして、ぐるぐる回っておる様な信心ではね、つまらん。そのところはそういう風に頂いて貰いたい。ここまで登ったから、やれやれ安心しておるところに、失敗もだけれども、失敗したからというて、次に飛躍する様なもの、何にもない。
 何時も九里半のところで、いうならばぐるぐる回っとかな、頂上を極めると言う事がない。例えば失敗しましたと、まことにそれは油断であったと、後でそれを気付くからです。ですからそれは良いて。神様はそれをどうして失敗したかと仰らんけれども、失敗を又次の信心を進めて行く一つの起点にしてです、次には五下ったら六登れ、六になったら次に七になって行く勢いにしなければならん。飛躍するためには矢張り屈まなければならん。飛ぶためには矢張り縮めなければいけません様にね。
 私共の場合には、いつもこれは私の信心を二十何年の信心をじっと振り返って見ますとね、随分御粗末御無礼もあった、失敗もして来た。それがそこに何かある、ある度に私は次の信心に飛躍しとる様に自分で思います。だから問題はここに十里の坂を九里半登っても安心してはならぬぞと、十里を登り切って向こうへ降りたら安心じゃと言う事はどう言う事かと安心じゃ、それは神様も安心して下さると言う事なのです。
 もうあの氏子は大丈夫、よし例えば、失敗してもあれは失敗度に信心が進んだから、神様は楽しんで失敗を見てござるに違いないね、そうでしょうが。だから向こうへ降りたら安心じゃというのは、私共の信心の内容がそこまでね、進められたと例えば、昨日の朝の御理解。昨日も一昨日も同じ御理解でしたね。先々日は後半、先日は前半のところでした。しっかり信心の帯をせよと、昨日はその前半のところ、例え泥棒といわれても乞食じゃといわれても腹を立てるなとこういわれる。
 立てるなとはっきり、そこんところの理解を深めさせて頂きました。その前日はしっかり信心の帯をせよと云うことでした。そのしっかり信心の帯をすると言う事は、只一生懸命参っとります、いつもずーっと同じ事が繰り返されておる。毎朝御祈念だけ欠かした事有りませんと、いうもんじゃない。本気で信心の稽古をさせて頂くと言う事だと言う事でした。本気で信心の稽古をさせて頂く。だから今日私が申しますところもそこです。例えそれが隙が無い様に失敗せん様にと思うておっても。
 そこが人間いわば眠っとる間に失敗はある。それは云うなら不可抗力である。だから神様はそれをね、何故眠るかとかと云う様なお叱りを下さると云う様なものじゃない。けれども、その眠っとった本人はそこのところをハッと気付かせて頂いて、次には眠らんで済むおかげを頂く。ためにこげな修行をさせて頂くと言った様な逞しい信心の稽古をその事に依ってさせて頂く。ここではよく流行りますね。
 何か自分の信心が落ちたとか失敗したとか、お詫びのしるしに今日一日断食しますと言った様な修行生の方なんか皆それをやります。大変有難いことだと思いますね。いわゆる失敗した、そのお詫びのしるしに普通じゃ出来ない修行をやってみようと言う様な心の状態。だからそういう状態まで信心が行ったら信心が安心だとこういうのですね。信心と云うものは締められれば締められる程、締め太鼓じゃないけど、良い音色が出るという風でなからにゃいかん。
 神様は絶対にね、もう締めて縄が切れる程締めなさる筈は絶対ない。締められれば締められる程、良い音色を出すと云う太鼓の様に、そんなら余り締められよったら締め切られるか分からん、締め殺されるか分からん、絶対ありません。だから信心とはそういうものだと、神様はそういう働きを私共信心をいよいよ進めて行こうという者上には表して頂けると言う事。私は承知できた人達の上に、神様が安心して下さる、いうならば九里半のところを十里登った時にです、それが分かるんです。
 もう信心はこれ以外にないんだと、もう信心はここに極まったと、例えばそこを実感させて貰うところなんです。信心しよってどうしてこんな事が起こるであろうかと言う様な間はね、神様はまだ安心して下さることは出来ん。人間ですから、それは失敗があります。一生懸命思うておりましても失敗があります。自分に気が付いて失敗することもあれば、いわゆる自分が気が付かん間に、いわゆる不可抗力的な失敗をすることもあります。ですから、失敗を責められることはないですけれども。
 それを成功のもとにしようという意欲が欲しいのです。神様が願われるのはそれだと思う。今日は十三日会ですね。ここでは月に一回十三日という日を神の願いの成就する日として大事に致します。皆さん集まられて朝から御様奉仕、午後からは熱心に信心の共励を毎月させて頂いておる。その様なことが、神様の願いが成就して行く一つのきっかけをとでも申しますか、を頂かせて貰ていよいよ神様の願いが成就することの為に私共精進させて頂こうとする姿勢。
 いわゆる神も助かり氏子も立ち行くという原理とでも申しましょうかね、金光様の御信心のおかげのそれは神も助かり氏子も立ち行くと言う事なんです。神様の願いが成就したときには、すでに私共の願いも成就しておるんだ。普通では私共の願いは成就するけど、神様の願いの方には全然触れて行こうともしないという信心も沢山有ります。いやお道の信心を頂いて居る信奉者でもそんな人が矢張り沢山有ります。
 今日は初めて幹三郎が皆さんの一生懸命での御祈念のおかげで朝の御祈念を奉仕することが出来ました。若先生が昨日、一昨日から青年教師会の幹部をしとりますから、早くから行って泊まりがけで、しかも昨日は教師会が善導寺の教会でありました。どちらも放されない。それもあちらとこちら股にかけて昨日御用させて頂いて、一昨日から泊まりがけでございましたから、昨日は二番目の息子の光昭が御用させて貰いました。
 昨日一昨日から光昭は頭が痛むというてから休んどります。それでまあ、若先生が昨日夕方帰って来てますから、帰って来た安心からでしょう、今日出て来ませんでした。若先生もまた、本人から直接聞きませんけど、家内が今日は勝彦は真っ青な顔してから、もう昨日久留米教会からでした。布団三枚も重ねたけど全然温もりきらずに、そして教師会の方へ行って、とにかく早く床を敷いて早く何か熱いおかゆをといって休んだと家内から聞きました。おかげ頂いて今日も御祈念に間に合いませんでした。
 有難いことに幹三郎がお広前に奉仕させて貰いますから幹三郎に、なら今日はあんたが代わって御祈念をと言う事で、まあ曲がりなりにも朝の御祈念を、いやむしろ何か生き生きしたね、何とはなしに朝の御祈念の座に付かせて頂いてから、矢張り彼なりの一生懸命のものがあったんだと思います。皆さんもその事を心に掛けておられるから一生懸命、矢張り御祈念なさっておられます。
 そういう後から一生懸命の祈りと本人も一生懸命かもしだす雰囲気というものが、いわば兄達ではいただけなかった雰囲気の御祈念が出来たと私はそう思います。皆さんどうだったでしょうか。今日は幹三郎の誕生日に当たるんです。ああおかげ頂いとるなと、昨日家内からその事を聞かせて頂いて子供達の誕生日をよく知りませんけど、明日はいつも十三日、明日はいうならば、あの人の誕生日だけども、十三日会でいつもお祝いをしてやる事が出来ない。
 そげな事があるもんか、お前やそげんこつがあるもんか、私はいいよりましたけど、十三日会が済めば皆さんておざをして又残られた方達の食事の用意など準備せんならんので出来んとこういうから、そげなことはなか、どうかさせて頂かじゃこてというて申しておりましたけど、今日は神様が誕生日に初めて今日は八十一節でしたね。八十一節と言う事は広がった上に広がった第一歩と言う事でしょう。これは幹三郎のためにこんな素晴らしいことはないと、神様がして下さった様な、と言う様な気が致しました。
 おかげはいよいよ頂かれる。広がったが上にも広がって行かねばなりません。それにはね、どうしても九里半登ったからやれやれ安心といったことでは、九里半までは一生懸命登っても九里半でぐるぐる同じ処を回っておる様な失敗では本当に相済まぬこと。その十里の坂を向こうへ降りたら安心じゃというところまで信心を頂かなければならん。信心の安心じゃというのは神様が安心して下さることだと私は思わせて頂きます。あれは失敗しても失敗の度に一段と飛躍する。
 いや信心とはそんなものだと、例えば昨日の御理解、一昨日の御理解を頂くとです、例えば、泥棒といわれても乞食といわれても腹を立てなと仰る。立てんどころか却って御礼申し上げる様な心が、その様な信心から育つのであり、しっかり信心の帯をせよと言う事は、本気で信心の稽古をさせて頂くという思いが本気で出来たときと言う事。ですから、どういう失敗させて頂いても、それに依って信心の稽古をさせて頂いてそれをふんまえとして、また次の信心に飛躍する。
 その信心の稽古の、いうならどん腹というものがここに極まったとき、あの氏子はもう放っといても良い。成程失敗もするけれども、その失敗は可愛らしい様なもの、その度に弾むつぎに。そして五落ちたら六、落ちたら七に進んで行くから波状形、信心はこの様にして進めて行くものだと思うし、なら信心の根本のところがそういうものだと分からせて頂くと言う事。それを思い込ませて頂くと言う事。
 だから信心がどんなに素晴らしいまいにち毎日のお参りが出来るというても、いつも九里半のところで行ったり来たりして、十里のところへ、いわば頂上に立つことが出来無かったら、本当の信心、神様に安心して頂く様なおかげになって来ないと私は思うんです。 九里半のところで手を緩めると、また後へ戻るとこう仰る。本当にお互いが十里の頂上をそこに見ながらね、そこに知りながら、信心とはそう言う事と分かりながら、それが出来ないとは残念なこと。
 ですから頂上を極めんなりにずうっと九里半のところでぐずぐずしとかんならん。して見かけにはお日参りしよんなさると言う事になる。修行も出来よんなさるけども、その度に上に進むと言う事がない。信心とは締められれば締められる程良い音色を出して行くのが信心だと一つ思い込ませて頂かにゃならん。それには本気で信心の稽古をさせて頂く。今日もどうぞ信心の稽古をさせて下さいと、いいながら失敗する事もあるけれども、その失敗も又稽古の材料になる。
 そして失敗した事だけではない。却って次の信心の飛躍を遂げておる。どうでしょうか、皆さん。ほんのそこんにきでぐるぐる回っていることはないでしょうか。分かっているんです。今日はそんな風に頂いた。 十里の坂を九里半登っても安心してはならぬ。安心しとらんつもりだけれども、矢張り失敗しとる。けれどもその失敗のおかげで、もう次には次の飛躍の姿勢が出来ている。信心はそれだと思い込ませて貰う、分からせて貰うと云うことが出来たときです。
 それは十里の坂を登りきった様なものである。まだ成程おかげは受けていない。力は受けていない。けれども氏子の心の上に信心のそういう姿勢が出来たとき、神様が安心してくださる。私は今日はそういうところをです、向こうへ降りたら安心じゃと言う事を、これは私共が安心じゃというのではなくて、そういう腹が私共一人一人の上に出来たとき神様が安心して下さる。いうなら、そこから神の願いが成就して來るのだ。
 私共の小さい願いが成就しておる間は、本当に目前の事であるけど、神様の願いがいよいよそから成就して行くことの為に様々な御試練も有りましょう。いわゆるお試しも有りましょう。けどももう神様があの氏子は安心じゃと言う所まで、私共の腹が出来ておる限り、神の願いが成就することの為に、私共の上に働きかけて下さっても、もうびくともすることではない。締められれば締められる程むしろ有難いというものが生まれて來る、よい音色が出て來る。そこに神様の願いが成就して行く。
 その向こうには、それこそ私共が夢にも見なかった、思いも掛けなかったという私共の願い以上の願いが成就することは勿論。ですから信心の一つの姿勢、基本というところを八十一節には教えて下さってる様に思う。ここんところを、しっかり皆さん頂かにゃ。いわば神様に安心して頂かれる信者、氏子にならなければいかん。そこから神の願いの働きが始まる。けどももうその事にはびくともしない神様の願いが成就するときには私共の願いは全然成就しません。神の願いが先に成就しよると、右と願えば左、左と願えば右と言う事も有ります。
 けれども丁度それはみすを編んでいる様なもの、ツツロコガ右に行ったり左に行ったりしよるけれども、みす自体は段々編み上げられて行きよる。そこんところが、神の願いが先ず願わして頂く。そしてそこに成就したときには自分が思いも掛けぬ程しの力を受けておる。夢にも思わなかった様なおかげがそこに起こって居る。そういうおかげを頂かせて貰わにゃいけん。どうぞ神様に安心して貰える信心とは、どう言う事かと言う事を今日は八十一節から頂きましたですね。
   どうぞ。